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注:以下の様に「柳田国男」が書いています。
昔の日本人は、木綿を用いぬとすれば麻布あさぬのより他に、肌につけるものは持ち合わせていなかったのである。木綿の若い人たちに好ましかった点は、 新たに流行して来たものというほかに、なお少なくとも二つはあった。第一には肌ざわり、野山に働く男女にとっては、絹は物遠ものどおく且つあまりに 滑らかでややつめたい。柔かさと摩擦の快さは、むしろ木綿の方が優まさっていた。第二には色々の染めが容易なこと、是は今までは絹階級の特典かと思 っていたのに、木綿も我々の好み次第に、どんな派手な色模様にでも染まった。そうしていよいよ棉種わただねの第二回の輸入が、十分に普及の効を奏し たとなると、作業はかえって麻よりも遥かに簡単で、僅わずかの変更をもってこれを家々の手機てばたで織り出すことができた。そのために政府が欲する と否とに頓着とんちゃくなく、伊勢いせでも大和やまと・河内かわちでも、瀬戸内海の沿岸でも、広々とした平地が棉田になり、棉の実の桃が吹く頃には 、急に月夜が美しくなったような気がした。麻糸に関係ある二千年来の色々の家具が不用になって、後のちにはその名前までが忘れられ、そうして村里に は染屋そめやが増加し、家々には縞帳しまちょうと名づけて、競うて珍しい縞柄しまがらの見本を集め、機はたに携わる人たちの趣味と技芸とが、僅かな 間に著しく進んで来たのだが、しかもその縞木綿の発達する以前に、無地を色々に染めて悦よろこんで着た時代が、こうしてやや久しくつづいていたらし いのである。