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「秋田八丈」と「ビロード」 |
*秋田八丈 八丈はもともと八丈島で生まれた草木染めの絹織物です。これが全国に伝わり、秋田では、海岸に自生するハマナスや山つつじを染料として用いるなどの工夫がなされた。八丈という名前はついていますが、八丈島の黄八丈 (きはちじょう)とはまた違った独自の染織物で、染めの原料であるハマナスの根による茶、ヤマツツジの葉による赤みの黄、カリヤスによる青みの黄が奏でる鮮やかな色調と気品のある渋さが醸す素朴な縞模様が約200年 の伝統を物語っています。秋田八丈の基調色は、雅味のある鳶色と黄色です。 ー歴史ー 秋田県秋田市川元むつみ町、上野馬場小路の東側の蓮入院の間は、絹方御用地であった場所です。石川滝右衛門遊蚕を支配人として寛政四年(1792年)に産物方役所を設け、続いて文化十一年(1714年)に遊蚕の献策を取り 入れて絹方役所を設置、従業員百十余名で畝織、平織(秋田平)、錦、縮緬、竜紋織、綾織等を生産しました。 これと前後して、絹織技術向上を図る為、上州桐生(群馬県)から蓼沼甚平を招き、上野馬場小路で染織業を起こさせました。遊蚕は文化十四年、病をもって没しました。彼の伝えた技法に蓼沼のもたらした桐生の妙味を加 え、金易右衛門、関喜内らの協力により、県内の海岸地帯に自生する『ハマナス』の根を染料として雅味のある鳶色をつくりだすことに成功しました。 そして、秋田八丈、秋田絹の名声を大いに広たそうです。明治時代には、取引高も増大して秋田絹織物の黄金時代出現をみるに至りました。しかし、日露戦争後の大不況のため廃業する者が続出してしまいます。大正時代に は妹尾謙治、佐藤房太郎、滑川五郎を数えるのみとなりました。そのしばらく後、唯一の織り元となっていた滑川機業場が、社長の高齢と後継者不在のため、平成十五年に廃業となり、秋田八丈は一時的に姿を消しました。 平成十八年に、「滑川機業場」の技術者が秋田八丈を復活させています。 *ビロード(ベルベット) ビロードは、経糸を二重にし、織るときは一定の間隔で針金を織り込みます。織り上がった後針金の上の縦糸を切ると、経糸が毛羽立ち、線切りビロードとなります。西陣のビロードは特有の羽毛や輪奈をつくるため横に針金 を織り込み、後で針金の通った部分の経糸を切って起毛したり、引き抜いて輪奈を作る有線ビロードです。本天(ほんてん)と呼ばれるものは緯糸を3回普通に織って、次にパイル経を地組織から上げそこに針金を一本入れる 織り方。約3センチ間に直径1ミリ長さ50センチの針金を50本も織り込むというものです。ビロードは紀元前2000年中国において製造されたと言われています。西紀以前に中国、バビロン、パレスタイン等で製造されていたものと推定される。ローマ遠征軍は、アジアの機織をヨーロッパに伝え各地にビロードが盛ん になりました。太古のビロードはペルシャ製またはペルシャの影響を受けたものと言われています。 ベルベットは織物の名称で英語のVELVETよりきています。ビロードとも呼ばれソフトな感触や深い光沢感で古よりドレスやカーテン、ナポレオンの戴冠式のマントなどに使われてきました。13世紀イタリアが発祥の地とされ 日本には約500年前に渡来したといわれています。ベルベットが工業的に国産されたのは昭和にはいってからで現在では福井県・京都府などが主要生産地となっています。 ・特 性 ベルベットはパイルの直立性に優れ、またパイルの毛並みで独特の光沢を醸し出します。また、パイルを独自に織り込む織り方なのでパイルの高密度が可能で、しかもパイル抜けが起こりずらい構造ですので、液晶のラビング クロスやパトローネの遮光など精密機器の部品や微細屑の除去などの研磨布として活躍しています。 |