戻る 次へ



東三河における養蚕業の概略


東三河の養蚕については、日本書紀に書かれている奈良の都にも納められた赤引の糸(最高級の絹糸)が最古の文献です。「赤引」という地名は、蒲郡市の赤日子神社と豊川市の犬頭神社、あと新城市赤引(赤引温泉で有名で、長篠城近く)が有力な候補とされています。また今昔物語「参河国犬頭白糸を生む話」に、東三河地方の白糸絹糸の話が記されています。東三河の絹糸は、かなり上質で有名で「伊勢への献上品」として使用されています。
豊橋周辺の蚕糸業は、『日本後紀』の記述から奈良・平安時代まで遡ると言われています。明治15年、豊橋市で初めての本格的な器械製糸工場である細谷製糸会社が設立され、その後次々に製糸会社が設立されました。明治39年には県内生産量が全国で第4位になりました。豊橋の製糸業の特色は玉糸製糸でした。安価な玉繭から糸を取り出す方法を、群馬県出身の「小淵志ち」が考案し、二川の糸徳製糸工場で本格的な製糸業を始め、二川・豊橋は「玉糸の町」として知られるようになって行きます。

注:神宮神御衣御料所(じんぐうかんみそごりょうしょ)について
三河地方で紡がれた糸を毎年7月3日〜4日に伊良湖から船で伊勢神宮に奉納する行事です。この行事は俗に「お糸」とか「お糸船」と呼ばれていますが、正式には神御衣祭(かんみぞさい)といい、神宮において1年に一度あるいは二度、神服を新しく祭神に奉る祭儀です。伊勢神宮では、毎年5月と10月の14日に行われ、本祭に先立ち和妙(にぎたえ=絹布)、荒妙(あらたえ=麻布)が織られ、当日は内宮等に和妙御衣、荒妙御衣として奉納されます。この祭りの原料糸となるのが、毎年お糸船等で奉納する「赤引きの糸」です。「赤引きの糸」は「清浄な絹糸」という意味で「神宮に奉献される絹糸」のみにこの語を使うこととなっています。「お糸船」は、約1,300年前の天武天皇のころから始まり、応仁の乱で中断されていました。お糸奉献がお糸船と呼ぶようになったのは、古くは、福江港より荷舟を借り、二日がかりで鳥羽に到着したそうです。いつの間にか世間の人がこの行事を「お糸さん」とか「お糸船」と呼ぶようになったと言われています。「お糸船」は、奉納に関わった人々の愛称だそうです。「お糸船」の行事は、再興されてから、今年で114回目だそうです明治に入りその中断を知った田原市(旧渥美町)の渡邊熊十がその再興を志し、明治34年三河の伝統行事が復活しました。そして、伊勢神宮の神御衣祭の和妙(にぎたえ)と呼ばれる絹織物の原料となる「生糸」を繰ります。絹糸は、清浄な糸を意味する「三河赤引糸(あかひきのいと)」と呼ばれ、神が召す絹織物の材料になります。七月三日に三キロほどの絹糸を船送する。)昭和23年頃には、養蚕家も姿を消し豊橋、新城で生糸を依頼せざるを得なくなりました。現在では、新城の愛知東農業協同組合の皆様に依頼しています。
(田原市観光ガイド その他参照)