戻る |
豊 橋 乾 繭 取 引 所 |
豊橋市に最初の乾繭取引所が設立されました。日本の繭生産は、長野県が第一、第二位は愛知県でした。三河は、最も養蚕が盛んであった事から東三河の中心都市である豊橋市が生繭集散地となりました。明治初頭は、「二つ繭」である「玉繭」は需要が少なく、 真綿を製造する為のみに使用されていました。豊橋市の生糸業者は、この玉繭に着目し朝鮮方面からも玉繭を集めました。遠隔の土地から玉繭を持って来るには、乾繭にしなければならない事から「生繭の乾繰」が他の土地よりも最も早く発達しまいした。そし て、普通の白繭・黄繭の乾燥も加わり、その乾繭取引は壮大な量になったと言われています。しかし、生繭取引が盛んになるに従ってその取引には種々不便が多く存在しました。 (一)繭相場の波瀾多く、製糸家の立場は常に危険に脅かされる。 (二)問屋業としても相場の波瀾に依り安心して営業が出来ない (三)銀行は相場の高下のある繭を担保とする貸出を喜ばない (四)生繭は取引期間短く自然相場の高下を甚だしくする 上記の事から、昭和十一年「組合として乾繭実物取引」を開始します。これが、今日の銘柄清算取引認可の基礎となったと言われています。 しかし、実物取引はその受渡期限にゆとりがない 等から (一)実物取引は業者以外のものが取引する事が出来ない (二)必ず受渡せねばならぬので不必要の受渡をする事がある (三)保険繋ぎが出来ない (四)円満迅速なる大量取引が出来ない (五)生産過程の永い生糸製造業に対して綜合的な長期に亘る相場を予見せしむることが出来ない 上記理由で、実物取引より一歩進め、清算取引所設置認可を商工省に申請し、「会員組織豊橋乾繭取引所」が発足します。 第二次世界大戦が終わった昭和26年5月12日に「横浜取引所」を継承した「横浜生絲取引所」が、5月14日に「神戸生絲取引所」が発足し、生糸の取引が再開されます。そして、平成10年(1998年)10月1日、「横浜生絲取引所」は「前橋乾繭取引所」 と合併し、「横浜商品取引所」となります。乾繭取引所は「前橋乾繭取引所」以外にも「豊橋乾繭取引所」がありましたが、平成8年(1996年)10月1日、「豊橋乾繭取引所」は「名古屋繊維取引所」等と合併し、「中部商品取引所」となります。平成19年( 2007年)1月1日に縮小され、「中部商品取引所」は「大阪商品取引所」と合併し、現在は「中部大阪商品取引所」と変化していきます。 最終的に、「横浜商品取引所」では平成16年(2004年)3月に乾繭の上場を廃止し、「中部商品取引所」では平成14年(2002年)3月に乾繭の上場を廃止しました。生糸が日本の主要な輸出品でなくなるのと歩を合わせるようにその役割を終えて行きます。日 本の近代化に貢献した乾繭や生糸の先物取引について語られることはあまりありません。 注:乾繭(かんけん)とは、 蚕が作った生繭を長期保存するために乾燥させた繭の事です。以前は、原料としての乾繭と製品としての生糸とが先物取引のできる場として商品取引所に上場していました。「原材料と製品」の価格変動リスクと共に「乾繭と生糸」との価格差の変動リスクを みてヘッジする役割が大きかった為です。生糸が日本の主要な輸出品でなくなるのと歩を合わせるようにその役割を終えて行きます。 |