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豊 橋 の 玉 糸

玉糸製糸は、豊橋製糸の特徴です。玉糸とは玉繭(2頭で作った繭)から引いた糸です。(玉繭は、屑繭扱いで真綿原料となっていました。)群馬から「小渕志ち」が二川町(現在豊橋)に流れ、人々に製糸の技術を教え、玉糸製糸の技術を工夫し、 この地の朝倉仁右衛門と共に明治25年から玉糸専業の工場を設立します。明治21に大林宇吉が、この工場で玉糸・繰糸を学んだ工女6名を雇って座繰玉糸の新工場を設立します。明治34年に大林宇吉らが、三遠玉糸製造同業組合(現三州玉糸 共同組合)を設立します。(明治末期の生産高72.5t余りが、恐慌時でも893.3tへと12.3倍にも増加する。)豊橋製糸業は、第一次世界大戦後も発展し最盛期を迎えて行きます。当時豊橋は、平野村(現在の岡谷市)に次いで全国第 2位の製糸都市に成長します。以降は、10釜以下の零細工場が加わりその規模は拡大していきます。豊橋市における製糸の生産額は、大正、昭和初期を通し、全工業生産額に占める割合は60%を超え、時には80%を越える高い割合を示してい たと言われています。
座繰製糸は、当時足踏座繰機も使用され、東三河地区では84人、508釜で再出発しますが、繭の入手困難などから廃業します。玉糸は節のある独特な風合が好まれた事から、海外への輸出も比較的多くありました。1950年頃からのシャンタン 流行で、アメリカからの大量注文があった事が玉糸製糸復興のきっかけになったと言われています。平成になり3工場(浅井製糸・高橋製糸・大林製糸)が操業していましたが、平成7〜10年にかけ廃業となり、豊橋の製糸業は消滅していきます。 しかし、浅井製糸にあった玉糸の繰糸機は、下諏訪の宮坂製糸に移されて現在でも玉糸製糸に使用されています。


玉糸製糸の機械について
豊橋では座繰り器は、「だるま」と呼ばれています。豊橋に現存する玉糸の繰糸機は、豊橋民俗資料館に展示されています。これは、豊橋市松山町の清水製糸場で使用されたもので、天和紙式座繰り器を動力駆動に改良を加え連結した繰糸機械です。一般的な生糸の座繰りは、鍋で繭を煮沸して糸を繰り、 数本集めて1本の生糸にし、この束ねた生糸を女工の側面いある糸枠に巻き取ります。一方玉糸の座繰りは、繭を煮沸する鍋の左横に糸枠を置いて上州式の座繰り器に似ています。小渕志ちは、上州生まれであった事から玉糸繰糸機は、上州式を参考にしたと言われています。そして、玉糸は頻繁に糸を繋がなけれ ばなりませんので糸枠は左に置いた方が作業の効率が良かったとも言われています。


参考:1927年度に営業した10釜以上の工場について
全国の工場:3293(器械製糸2937、座繰製糸75、玉糸製糸281)
全国の釜数:329371(器械製糸309612、座繰り製糸1562、玉糸製糸18197)
愛知県の工場数:421  愛知県の釜数:33477
豊橋市の工場数:263  豊橋市の釜数:17789

参考:豊橋の蚕糸系譜
1930年 世界恐慌に伴い生糸相場の暴落により蚕糸業は退勢
1931年 満州事変勃
1937年 国有生糸にも配給制が実施され、統制が直接生糸に及びます。
1940年 国有生糸にも配給制が実施され、統制が直接生糸に及びます。
1941年 蚕糸業統制法が公布され生糸と製糸業を全面統制し、企業合同と釜数の整理を全国の業者に強制し、太平洋戦争に突入していきます。
1942年 企業整備令の公布により豊橋市内の器械製糸工場は29、設備釜数は3209以下に激減し、権利の譲渡や買収が行われ、大資本系列に吸収されていきます。
1944年 製造会社設立後にはわずか3工場507釜へと減少し、1941年に437業者あった座繰(足踏)業者は統制下では座繰共同施設組合により原料の配給生糸の買上げを受けますが、1945年には68業者に激減しています。
1945年 6月19日夜半から20日未明にかけて豊橋の空襲により市街地は壊滅した。全戸数の70%が焼失、工場はほとんど灰となります。
1960年代以降 戦災によって豊橋製糸業は全滅的被害を受けますが、一部の焼失を免れた工場では操業を再開しました。しかし戦後、繭生産と製糸設備のバランスが崩れた為に原料繭不足に陥ります。その後、朝鮮戦争による一時的な好況も手伝い器械製糸については、 14工場までが操業を行いますが、1960年代に豊橋の器械製糸は消滅します。