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豊橋の製糸概略 |
豊橋は、岡谷・前橋と共に代表的な製糸都市として知られ、『豊橋音頭』では、“三州豊橋糸の町”と唄われています。製糸業は、日本の発展上の外貨獲得に貢献しました。三河は平安期において、日本の代表的な養蚕・製糸国であり、 上糸国(延喜式)として位置づけられ「赤引糸」「犬頭白糸」の名が残されています。しかし、藩政期は、綿と木綿の産地として発展しました。明治期に入り開国による生糸輸出の振興が、全国的に養蚕業と製糸業が発展させました。三 河でも豊橋を中心に蚕糸業が発展して行きます。そして、外国綿花の輸入増加した事で綿作が桑栽培に変化して行き、養蚕業の発達が製糸業の発展を促していきます。 豊橋の製糸業は、1870年代後期の座繰製糸から始まったとされています。朝倉仁右衛門(1976年〜豊橋本町)、小渕志ち(1979年〜二川町)等による座繰製糸です。器械製糸は、朝倉仁右衛門等の細谷製糸株式会社(1883 年)が愛知県で最初の工場とされています。第一次大戦を機として繭・生糸価格の高騰が大正の中頃まで続きました。昭和の初め価格は下落し出し1929〜1930年の恐慌で暴落しますが、生産増大を図って下落に耐えますが空襲を受け消滅していきます。 豊橋・羽根井校区の民話 「お蚕さま」 蚕の卵が産み付けられた種紙は、今からおよそ千三百年前から、寒い冬の間、本宮山奥院の木箱に預けられていた。春になると、宮司の祈祷を受けて養蚕農家に配られた。 吉田で養蚕が始まったのは明治の初めだった。細谷で生まれた民造は、蚕に不思議な力を感じ、農家が生き残るには製糸しかないと考えた。そこで、六名の女工を群馬県碓氷に行かせ、製糸の技術を習わせた後、花田(今の羽根井校区)に製糸工場を造った。また、民造の弟は、 「質の良い繭を生産するには、桑が大事」と桑の改良に努めた。桑畑は細谷、二川方面から近隣の農家に広がり、蚕を飼う農家が増えていった。茂一も細谷で子どもの頃から桑をつんで育った。あるとき父親から「お前も製糸で身を立ててみないか」と進められ、中郷神社の近くで製糸をはじめた。茂一の一日は、体を 清め、正装して神前に正座し、祈りを捧げることから始まった。 茂一の楽しみは、繭問屋と連れだって養蚕農家を訪ねることだった。いつも足を運んだのは、谷川のせせらぎが聞こえるお美津の家だった。清々しい緑の空気がごちそうだった。ここで育った繭は、昔から質のよい絹糸になるのでたいそう尊ばれ、お上への献上品として遣われた。茂一が 「タンポポのわた毛が飛び始めたので、ぼつぼつ卵を温めるころかと思ってな」と話しかけると、お美津は目を細めて、「だいじなお蚕さまだでね。わたしが種紙を半纏でおぶって卵を温めとるだよ。そろそろ卵が透きとおってきたで、そのうち、かわいい蚕が生えるぞね」 蚕が生え、はきたてが始まると、養蚕農家はにわかに忙しくなる。桑が足らなくなると、じいさまが桑問屋をかけまわって桑を集めるのだ。 「蚕にゃあ、『桑だぞよ、桑だぞよ』と話しかけ、待って貰うだが、つらいぞん」 わが子のように育てた蚕が、藁で作ったまぶしの中をくぐりぬけて糸を吐きながら命がけで繭をつくる様は人の心を動かした。こうしてつくられた品質の良い繭は、皇室に献上され、後に「蚕都豊橋」と呼ばれるようになった。 |