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好条件を持つ三河地方では、ガラ紡が始まると従来の米搗水車などがガラ紡水車に転嫁するだけでなく新規に水車を設立し、ガラ紡を開業する人々も続出して急激な発展を遂げます。 三河地方でガラ紡が始まって数年後の明治15年、この地方のガラ紡機の紡錘数は6万5千錘を超えました。郡別に見ると、滝村を中心とする額田郡が約3万6千錘と圧倒的な比重を占めている次いで宝飯郡が約1万錘、幡豆郡、碧南郡が約8千錘と言われています。現在の安城では、福釜村を中心とする地域でした。この地域は、長田川と隈田川が流れていて、どちらも傾斜が緩やかで水量も多くなかったのでガラ紡が始まる以前の明治11年には、水車場は一カ所存在するにすぎませんでした。しかし、明治13年に明治用水が完成した事で水量が増加し水車の新設が相次いだと言われています。福釜村では明治13年にガラ紡が始まり、明治16年には7カ所の水車の存在を確認し、明治26年には水車は25に達したようです。安城市に近い矢作川の中畑・鷲塚・米津近郊では「船紡績」行なわれていました。矢作川は、上流のように川に傾斜がなく、落差をとって水車をかけることが困難でしたので、川に船を浮かべ船の両側に外輪船のように水車を取り付け川の流れで水車を回転させて動力を得ていました。このような船紡績は、明治12年に中畑で始まり、翌年には鷲塚でも行われたようです。明治15年、船紡績を行う(機械船)は、中畑で46艘、鷲塚で15艘、米津にも4,5艘存在したと言われています。 |