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ガラ紡の「ツボ」を回転させるのに水力を利用した水車式のものが普及しました。東海地方では、同様の紡績機械をも凌ぐ事になりました。これは、紡がれる糸には手紡ぎに近い素朴な風合いがあり、近代的な機械紡績では利用することが難しい繊維長の短い綿も有効利用できる点が利点となったようです。西洋式紡績機と比べて簡単に使え、低価格であった事で農家の副業用として活用されました。
綿作が盛んであった愛知県三河地方では、ガラ紡は特に普及しました。(岡崎は臥雲辰致の記念碑も存在)しかし、国産綿は繊維が太く短すぎるため、原料は外国綿に移っていきます。そして、平野部では「船紡績」が行われ、老廃船に水車を取り付けることで工場として矢作川や矢作古川に浮かべて運転していました。この特徴のある工場は、川の流れを利用しているため、水嵩の増減や川の氾濫といった危険が常に存在したようです。 船紡績は、最盛期には矢作川流域に百隻ほどの船が浮かんでいたといわれています。一方、山中では「水車紡績」と呼ばれる、谷川で水車小屋にガラ紡機を設置する紡績が行われました。水車小屋を建てるのには場所の制約があり、高い資金が必要だったため、単独経営だけでなく、何人かで水車小屋とガラ紡機を借りる集合工場制度もありました。
明治20年頃をピークとして次第に西洋式紡績に圧迫され、安い落綿・屑綿を利用する事でガラ紡産業は維持されました。そして、動力源は、水力から電力に移り変わっていきました。明治20年代に入ると品質、生産性の両面でまさる洋式紡績に太刀打ちできず、洋式紡績工場から出る落綿を原料として太糸の生産に転換して競合を避け、独自の発展を遂げました。
動力として蒸気機関を採用する西洋式紡績会社が次々と設立され、技術者が紡績機械を使いこなすようになると形勢は逆転し、明治23.24年頃にガラ紡は壊滅的な状況となりました。明治26年頃から、西洋式紡績会社の落綿(綿屑)を原料として、綿毛布.段通(敷物用織物)の原料糸などを生産し始めます。しかし、紡績機に比べれば糸の太さむらは大きく、紡績速度も遅い為、 ガラ紡などの在来技術はより近代的な機械紡績に圧迫され、1887年をピークに衰退します。現在では愛知県の数軒で使われている。名古屋市にある産業技術記念館、豊橋市にある愛知大学大学記念館では動態展示されており、がらがら音を聴いたり、糸を紡ぐ様子を見たりすることができる