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最も古い「棉」は、インダス文明のモヘンジョ・ダロ遺跡で出土された銀の壺に付着していた棉布片です。(同時に紡錘も出土されています。)また、南米ペルーのワカ・ブリエッタ遺跡からは、約4000年前に棉の栽培が行なわれていた遺跡が見つかりました。よって、棉は新旧両大陸で並行して栽培されていたと言われています。
日本では、延暦18年(799年)三河国へ漂流した天竺人によって伝えられた種子を植え付けましたが栽培は成功せず、西暦1500年頃になりようやく栽培に成功し、棉布が出来る様になりました。当時、上流階級では衣服に絹が使用されていましたが、庶民の衣服は麻(大麻・苧麻 等)が中心で棉の利用により衣料としては大いに改善され、寒冷地を除き全国的に栽培が拡大し、永正7年頃に三河木綿が奈良の市場に現れ、やがて綿作の技術は和泉・河内などの畿内にも普及し始めました。天正・文禄・慶長期には木綿が庶民の衣料素材として麻にとってかわることになります。
苧麻は、1反織るのに40日程、木綿はその10分の1程であった事も理由の1つとされています。綿の栽培は、米と並んで商品作物として経済の活性化に貢献し、庶民の衣服として利用され、「糸を紡ぎ、木綿布を織る」事が女性の手で日々行われていました。また、農民から下級の武士の家庭においても自給自足可能な素材で、その着心地は四季のある日本の気候に合った素材でした。
綿作開始当初の農家では、「収穫したままの実綿」・「種を取り除いた繰綿」で売買し、残りを家族用の着物として布に織る程度でした。やがて、換金性の良い「布木綿」として売買するようになります。そして、元禄〜宝暦年間には多くの絹織職人が木綿織りを始め、木綿織り生産は急成長していきます。しかし、8代将軍吉宗が進める「享保の改革」で発行された「田方木綿勝手作法」
( 稲を作るべき田に有利だからと綿を作るのは百姓の勝手だから、田の綿作が全滅しても年貢はその年その村の稲の一番良い出来高に準じて徴収する)で、綿作は大打撃を受けました。
江戸時代の後半に、綿の栽培が畿内(奈良・大阪など)から東海・関東・山陽・山陰に移り始めていきます。しかし、栽培が全国に拡大した事で価格を低下させる事になりました。その一方で、棉栽培の肥料の需要が拡大し、肥料の価格が高騰しました。山陰では、高価な肥料である干鰯を少なくし、隠岐・山陰海岸で豊富に取れる海藻を肥料にしました。安価な肥料によって山陰での栽培は明治時代に発達しました。しかし、日本で栽培できる棉は、繊維が太くて短い綿花しか取れませんでした。新型の紡績機械が導入されると不適当となり、外国産綿花の関税が最終的には撤廃された事で、日本の棉栽培は事実上終焉し、田畑は野菜にとって代わります。しかし、それまでの日本にあった衣類向けの繊維である苧麻・大麻に比べ、繊維の質がよく収穫後の加工も容易でした。木綿の服は藍染めと相性がよく、藍の栽培も木綿の普及に伴い拡大していきます。さらに都市では、夜も起きて生活し農村でも夜に仕事をするように時代が変化し、菜種油の必要性が増し、ナタネの栽培も増えました。ナタネは、冬作物で稲やワタと競合せず棉・藍・菜種という農業と農産加工と流通を通して日本の社会を大きく変化させることになります。