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資料提供 日本竹筬工業株式会社  協力 代表取締役 豊田 亨 その他 
取り纏め 豊田 亨 平成13年10月に作成された「祖父江の竹筬」より
竹 筬 羽

1 竹筬場の由来

@ 創始者の碑 穂積町祖父江の中心よりやや南寄りの堤外に祖父江観音像があり、その前に岩石を積み上げた高台の上に、高さ2.5米余りの碑がある。(栗山拓次郎翁碑) この碑の裏側には発起人 片岡孫一・豊田為三郎・田中喜一郎・平塚栄郎・豊田佐馬治 その下に門人として10名の名が刻み込まれている。 祖父江に竹筬羽の製造技術が起されたのは記録が無いのではっきりしないが、碑にある栗山拓治郎が持ち込んだといわれている。  今より150年程前、嘉永の時代に始まったとされているが、栗山拓治郎を語れる人は今のところ見当たらない。従ってこの技術が何処から来たのかも解らない。  ただ明治の初め頃からいわれている製造方法には、北陸系と京都系がある。製品では大差がないが、各工程で違いがある。製法では、今でもそのまま引き継がれているというから、祖父江は北陸系が主であるので、栗山拓治郎は北陸で技術を習得し祖父江に持って来たと考えられる。  祖父江の地は河川が集中しており、しかもそれらの河川の終点になっている。この水の排水設備が十分で無いため来る年、来る年水稲は冠水し不作の連続であったらしい。  それでも明治以前からこの祖父江には120戸程の農家があった。この農家の窮状を救おうと栗山拓治郎が竹筬羽聖堂技術を持ち込んだ。そして、この仕事に生活をかけて取り組んだ人達の努力が、その後の発展に至ったと思われる。この人の末裔は岡崎に在住したと聞いた。

A 功績者の碑 祖父江中島の光照寺前に「栗山頼資君記功碑(従七位 近藤 靖書)」の碑がある。 1米位積み上げた岩石の上に高さ3米余り厚み30糎程のがっしりとした碑である。そして、この場所は祖父江の玄関口でもある。  裏には大正7年9月建設とあり、上半分前面に漢文形式でその功績が書かれている。文久元年6月生 この地の治水に胆力・竹筬の歯材が不足した明治28年、自ら決意して九州大分に出向いた事 等が書かれている。  下半分に特志者 板倉十三三郎・野田直三郎、有志者 竹中房吉 外25名の名と外55名とあり、その次に発起人 奥田惣太郎・豊田佐馬治・藤島貞一・平塚栄助・田中喜一郎・堀原作・栗山信路・水野庄作・水野清市・豊田忠市・伊藤才市 等総勢94人の名が刻み込まれている。  栗山頼資は、竹筬羽の製造技術の普及と販売に大きな功績があった人と言われている。発起人の大部分は、販売方面に従事した人達と聞いた。  この碑を建立した大正7・8年頃が全盛期と言われている。この人の末裔は東京に在住と聞いた。

2 全盛期の従事者 

この筬引きの仕事に携わった人は全盛時代の大正7年頃では、祖父江の80%の家が行なっていたという。せいぜい夫婦2人程度であったのが忙しくなって、外に出た兄弟や親せきが加わり、さらに他地区からいわゆる出稼ぎに来る者もいて、多い所で1件に5・6人という所もあった。
単純平均で(2人+6人=8人÷2=4人)4人
戸数 120戸×80%×4人=384人
従って戸数は96戸  従事者は384人
功績者の碑の裏に書かれた有志者等に人数に相当している。
 現在は、祖父江に2事業者、他地区に2事業者と取り纏めしている会社の従業員も含め8名である。しかし、今でも統計にはないが全国の95%以上を生産している。